fc2ブログ

大茂内の家 記事

なんと、昨日書いたが地元新聞社の記事がカラーで大きく載ってしまった。しかもテレビ欄の裏、最も読まれる確率が高そうなベスト位置で。この記事を読んでまた見学者が現れたらしい。壁の補習の為に来ていた左官屋さんが言っていた。やっぱり記事のほうが威力がある。住宅見学会の広告なんて毎日のようにこれでもかこれでもかと大きく載るので、相当でかく出さないと見てもらえないらしい。工務店なら儲かってるからデカク出すが、我々設計事務所はとてもでないが工務店のようなことは出来ない。

ところでまったく話は変わるが、石山修武さんという建築家がいる。昔からその独特な毒舌が好きな建築家で(建築家なのにデザインが好きではなく舌が好きというのも変だが)時々HPをチェックしているが、その石山さんが、カバーコラムで難波和彦さんの「箱の家」について述べているのが面白い。難波さんは「箱の家」シリーズで大変有名な建築家だ。「箱の家」をセキスイハイムオリジナルをゆるふんデザイナー建築家がずたずたにした今のハウスメーカー住宅に対する近代建築の夢のリヴァイバルと言っている。分かる。そんな気がする。それにしてもゆるふんとは‥この辺が石山修武さんらしくて、大好きである。

ゆるふんデザイナー建築家にもなれない田舎の設計屋は古民家再生!とか言って売り込むぐらいが関の山か。

注:ゆるふん=ゆるんだふんどし
スポンサーサイト



大茂内の家見学会 二日目

の今日は昨日とは変わって沢山の人が来てくれた。10:00すぎまで誰も来なかったので、今日もダメかと思ったが、それ以降ひっきりなしに沢山の人がきてくれて、昼食もままならまかった。みなさんありがとうございました。
osige_kengaku1.jpg

osige_kengaku2.jpg

ついでに地元新聞の取材まで受けて、もしかしたらいつか新聞に載るかもね。

ところで、古い家ってのはだまってて絵になるね。設計がへたくそでもそれらしくなってしまう。昨日の玄関から廊下を見た最初の写真でも、黒い大黒柱の縦の線と、梁の横の線、その上の束の縦の線のなんともいえないバランス間。モンドリアンか誰かの絵みたいじゃない?じつはこれを出すためあえて天井を高くして、上の壁と天井の境の線を消す為廻り縁なしの真っ白にしてるんだけど。今思えば正面奥が座敷なんだけど、あの襖の襖の額は(明かり窓)円の方が面白かったな。襖に丸い額なんてどうやって造るかは、かなり難しいけど。というより、何日か前書いたけど、今回の施主ではそんな話まるっきり無理な話。

今回の見学会に来てくれた若い女性の方が、玄関入った途端「オシャレー!」って言った人がいたけど、縦主さんさえ理解ある人であれば、超古い家のリフォームで、もっとモダンだとか、お洒落な家にもなるんですけどね。

大茂内の家見学会初日

今日と明日は大茂内の家の見学会だ。初日の今日は午前中見学者0.広告が地味だったかな~。osigenaicm.jpg

昨年の秋にやった白沢の家の見学会の時は朝早くから近所の人達が大勢つめかけてびっくりで、今回も似たような地域だったのでまた近所の人達が沢山くるかなと思って広告も控えめにしたのだった。天気は良かったが、年度末でみんないろいろ忙しかったのか、それにしても近所の人もわりと少なかったような気がする。やはり、広告が目立たなかったか。乗った場所もあまり良くなかったし。
午後はそこそこ来てくれて、30人程度か。

だいたい来た人は「うわーすごい」と「大きい家」という感想。すごいは黒々とした大黒柱yや梁。サイズが今どきでは考えられない太さ。大黒柱は30cm角。梁の大きいのは巾が18cmに背が48cm。まあ一般的な家ではないな。

玄関を入るとすぐに出迎える30cm角の大黒柱
00sigegenkan.jpg

居間
osigeima1.jpg

居間天井
osigeima2.jpg

この近くにはこのような古民家が結構まだ残っている。だが殆どの家では改築の時に取り壊し今どきの安っぽい家にしてしまっている。大変な財産を捨て去るのに安易すぎる気がするが。

だから多くの人に見てもらいたい。そして選択肢の中に祖先の残したものを受け継ぐ方法もあることを知ってもらいたい。そんな気持ちもあって見学会を行なったのだが、残念ながら今日はそのような家に住んでいてどうしようかと悩んでいる人は現れなかった。

明日に期待しよう。

大茂内の家

昨年8月から工事をしていた住宅がようやく完成した。ほんとにようやく!である。
いろいろあった。なにを隠そうおれの姉夫婦の家である。話によると明治2年に建てられたとのこと。130年も経っていることになる。その改築である。まさに最近はやりの古民家再生で、以前よりやってみたかった仕事である。

なのに途中で投げ出して、仕事を放棄しようかとも考えた。この仕事は、ごく一般的な設計監理ではなくCM方式いわゆる分離発注方式で行なわれた。姉の家でしかもあけてみなければどうなるか分からない古民家改築だ。安く、臨機応変に対応するためにはおれがすべて管理するのが一番いいだろうとの判断だ。工務店から見積もりを取れば、間違いなく高めに金額が出てくるだろう。なにしろどうなるか分からないのだから。

そして、木一本の拾いから発注まで、完全におれが工務店の社長になって工事は進められた。分離発注とは言っても普通は木材は大工工事に含めるなどして、設計者がみずから木や建材類などの拾いから発注まですべてこなすことはあまりないだろう。これはおれ自信が施工側にいた経験も長いから可能ではなかったかと思うが、しかし、設計屋になってからすでに14年も経っているため、段取り等で少々もたついたりミスったりと結構大変だった。

それが(つまり大変だったこと)が投げ出したくなった理由ではない。
ここでその理由について述べることは出来ないが、住宅でもその他の建築物でもいくら設計者がいろんな提案やアイディアを出しても建てる側が理解出来なければどうしようもないということ。新しいことに対して想像力がなく、既成のモノしか認めることが出来ない人の建物はつまらない。つまりその辺が投げ出したくなった理由だ。

しかしまあ、腹を立てたりあきれたりといろいとあったが、ハウスメーカーっぽい今どきのイミテーション住宅を建てないで、古いモノを活かした住宅に踏み切ったことに対して敬意を表したい。

墓の雪堀

に行ってきた。久しぶりの墓参りだ。春から秋までは月に一回ぐらいは来ていたが、冬の間はなかなか来れない。墓の中の妻に向かってしばらく来れなくてごめんとあやまる。
今年は豪雪だったが3月が比較的暖かく、雪解けの進み具合も早く、墓の周りの雪は去年より少なく感じられた。が、…雪が重い!ずっしりと重いのだ。そして、墓の脇に植えていたドウダンが雪で潰されていた。根元まで折れていないようなので、雪が解けたら添え木で立ててやればなんとか復帰するかもしれないが、それにしてもかなり痛んでいるようだ。
雪による木の被害はあちこちであり、実家でもそうとうやられたいた。添え木をして雪の備えていた木までが添え木ごと折れていたりしていた。今年は自分の家の周りの雪かきや屋根の雪下ろして精一杯で木のことまでかまっていられなかったのだ。

ホームページでも紹介しているが、古民家改修の大茂内の家がほぼ完成し、見学会を行うことになった。日時等はホームページのお知らせをご覧ください。今日やることがきまったばっかりなので、詳しくは後日出します。

米代川流域エリア産学官連携促進事業 木造建築研究会 研究会報告会

なげ~↑ 
があって能代まで行ってきた。これは産官学で米代川流域の秋田杉利活用を考えるため、二年前からいろいろな検討会を催してきたうちの建築研究会の報告会である。スギ活用住宅「秋田杉の家」の概要報告と「秋田スギを用いた内装仕上げ材の特徴と室内空間に与えるイメージに関する研究」(なげ~)の成果発表と、特別講演「人工減少化での森林産業のあり方」があった。
生意気を言うようだが、どちらの研究発表も研究当事者は真剣に研究をされてご苦労されたとは思うものの、これがこの秋田スギの産地米代川流域の画期的な利活用に繋がるとは思えないものだった。
そりゃそうだよね。たかだか2年程度で出せるそんな生易しい問題じゃないんだから。結論なんて出せないと思う。
そして、最後の特別講演で秋田の人口の減少率と高齢化率が全国トップクラスで、つまりせっかく素材があっても生産する人がいなくなり、大手大資本の製材やプレカット事業者が外材と海外の安い労働力を使って大量の生産施設を造りつつあるという報告にいたって、もうほとんだど手の打ちようがないことを突きつけた、そんな報告会だった。

まあ、われわれ地元で細々やってる設計屋は一軒一軒出来るだけ地元の材料を使っていくぐらいしか地域に貢献出来ない。是非とも家でも公共施設でも建て主側に理解していただき、みずから地元のものを使うよう要望するぐらいになっていただきたい。

帰りに西方設計さんに寄ってきた。西方さんとは新住協秋田「家」倶楽部でおつきあいをさせていただいている。
多忙の西方さんだが出来たばっかりの浅内小学校を案内してくれた。
asanai1.jpg

asanai2.jpg

外壁の色が実に良かった。節のある木を全面に貼ってあるが落ち着いたシブイ色合いである。なかなか公共工事だと思った色を使わせてもらえないと思うが‥きっと戦いがあったんだろうな。
帰り際、もっとブログ(おれの)更新しろと忠告を受けた。

花を見つけた

今朝ごみ捨てに行って、道路脇のある家の庭先に花が咲いているのを見つけた。R0010322.jpg
スノードロップだろうか。だとしたらその名の通り、雪の下からもう顔を出していたのかもしれない。昨日まで降った雪がまだ残っているなかに咲いた、可愛らしく可憐な花は、もうそこまで春が来ていることを告げて、気持ちまで明るくうきうきさせてくれた。
我が家も以前はいろんな花を育てて、チューリップを咲かせたりハンギングバスケットなどもつくっていたが、妻のことがあってから忙しさもあってずっとそんなこともしなくなっていた。
ちなみに花造りはどちらかというと妻よりおれのほうが夢中だった。
春になるとパンジーやビオラ、マーガレット等を買ってきてハンギングバスケット造り。夏はインパチェンスなんかでプランター。秋には来春に備えてチューリップを植えていた。冬でも夏に植えたインパチェンスが家の中で咲き誇っていた。
hana1.jpg

hana2.jpg

hana3.jpg

昨年は忙しくて出来なかったが、今年はやれるかな?花。

木が好き?

変なタイトルですが、日本人は木が好きなんだろうかと思う時があります。近ごろものすごい勢いで建てられている老人福祉関係施設などへ行くと、床や腰壁に木のような色彩のモノが使われています。殆どが木目の感じをプリントした塩ビシートを貼った床や、壁材です。建具も同様です。木の匂いもしなければ、木の柔らかさもありません。でもきっとこのほうが好まれるので、設計者としてはどうかと思いながらも、本物の木は傷は付きやすいし掃除などの管理も大変だろうから、やむなく使っているのだと思います。
このような施設を利用する人達も白い無機質な感じの空間よりも木のイメージが感じられる空間の方がきっと好むと思うのです。
つまり、木が好きなのではなく、木のイメージの色彩が好まれるとも言えそうです。
木のイメージの色彩とは茶系の色ですが、ベタッとしたペンキの単色でもありません。薄い茶系の色を基準としてそれより白っぽい色と、濃い色の筋があれば木目に感じられて、必ずしも木目でなくてもよさそうです。
つまり、そんな色彩が好きなのだと気付かされます。
いいや、本当は本物の木が好きなんだが、予算の都合で仕方がないんだ という方もいると思います。それもあるでしょう。
でもでも、です。最近の住宅を見ると殆どすべての建具や巾木などもこの塩ビシートを貼ったもので造っています。床はラワンの合板の表面1~2mmにさくらだとか楢だとかを貼って造った積層フローリングです。傷の付きにくい非常に堅いもので、木の匂いも吸湿性なども殆どありません。木には違いないのですが、では木が好きと言っているのは木の何が好きなのか、どうもあいまいになって来るように感じます。
やっぱり、「木の感じの色彩」が好きなんじゃないかと思ってしまいます。
皆さんはどうなんでしょうか?
俺は「木」が好きだな。だから、多少割れたり、反ったり、すき間が空いたり、捩れたりしても合板等ではなく無垢の木を使いたがる。ここ数年は厚さ4cmの杉の床が定番になってしまった。‥‥といいながら、クールでカッコいい住宅もポップで楽しい住宅も設計したい。
どっち方面でも楽しんで徹底するタイプだから、どんどん設計依頼していいよ!って結局宣伝でした。

卒業式

今日は中学の子の卒業式。ほんと、月日は経つのが早い。ということはこっちも年取ったということ。
卒業式で印象に残ったのは、子供達の歌声がじつにいいこと。この中学では毎年学校祭にあわせて合唱祭を文化会館でおこなっているが、その時もつくづく感ずるが、子供達の歌はいい!素直に感動出来る。
それから、答辞を述べた三年生の二人が歯切れが良く落ち着いていて、二年生の送辞とはくらべものにならないぐらい良く、一年でこんなにも違うものかと驚かされた。あの二年で代表に選ばれた二人も来年になれば、がらっとかわるんだろうか。この年ごろの1年間の成長の著しさがみごとに現れていた。

それにしても、こういう式でのお辞儀のなんと多いことか。日本人特有のものなんだろうが、多すぎないか。壇上へ出るたびに、来賓にお辞儀、先生にお辞儀、父兄にお辞儀、壇上に上がって国旗、校旗にお辞儀、皆に向かってお辞儀、終わってお辞儀、帰り又旗にお辞儀、先生にお辞儀、来賓にお辞儀。立場によって多少の違いはあるが、一回出るたびに最低でも5~6回ぐらいお辞儀している。お辞儀されたほうも、返しのお辞儀。
なんなんでしょうね。もっとさっぱりと出来ないもんでしょうか。なんかだんだんエスカレートしている気がするんですが。

だいたいなんの席でもそうだけど、前の人がやると次の人も同じような動作をとるが日本人。とにかく、他人と違うことをするのが怖い。自分の行動に自信がないからかな。
だから、このお辞儀も誰かやったら真似をしてどんどん増えていったのでは?

ひとごとのように言ってますが、僕もご多分に洩れず、やっぱり前の人と同じことをしてしまう。もっと自信を持って行動しよう‥‥かな。(う~ん、自信なさそ)

そんな中、クラスに戻って最後のHRで一人一人が最後に皆や先生や家族に一言述べていたのだが、皆 三年○○組になって良かった みたいなことを言っていたのだが、たった一人だけ、皆と同じような挨拶の後、「…それから、お母さん… バカ息子だけどこれからもよろしく。お母さんありがとう!!」と叫んで机に伏してしまった子がいた。泣いていた。家に帰ってから我が娘に聞けば普段はわりとおとなしくてあんなことを言うような人じゃないと言う。

とても勇気のいることだったと思う。なかなか出来ることではない。この勇気に皆もびっくりし、感動したと思うし、なにより、当のお母さんの心に一生残る宝になったろう。
これくらい自分で考えて行動出来る人間ばかりだったら、日本も変わるだろうね。

いいな。僕も娘からそんなふうに言われたかったなあ~

義母の死

前回の「すま研セミナー」をアップして買い物に出かけた時に義妹から携帯にTELがあり、車の運転中であったがいやな予感がしてすぐに出ると、やはり義母が良くないとのこと。医師から会わせたい人がいたら今のうちにと言われたとのことで、すぐに家に戻り子供たちを連れて病院へ駆けつけた。
義父達が住む街はここ大館から車で30分ほど離れた鷹巣町。
病院につくと義妹の子供たちも来ていて、これで孫全員である。
医師が来て、子供たちの声が聞こえたら落ち着いてきたようだ。いづれ今日明日が山場だとは思うがと告げていった。
札幌の三女は明日朝にならないと着かないので、それまでがんばれと皆で励ます。
夜8時近くになり、落ち着いているからと家が近い義妹の子供たちが、一旦家で食事をとりに出かけた後、8時5分過ぎに看護師さんが体を移動するのでホールで待ってくださいと部屋から出され、しばらくすると、看護師さんがやってきて義父へちょっと来てくれと耳打ちし、様子がおかしいから部屋に行ってみると、もう心臓マッサージを始めるところだった。
それから医師が来るまで30分近くもかかり、僕はなんで来ないんだといらいらして時計ばかり見ていた。
あっというまのことだった。
義母は天国へ旅立った。まだ69才。早すぎる死だ。
長女が(=僕の妻)が43でこの世を去ってから、かなりショックを受けて体が弱っていたとは思っていたが、原因がそればかりでなく難病にかかっていたのだ。
筋萎縮性側索硬化症というのか義母の病名だった。1年ちょっと前の妻の三回忌のときにはすでに歩いたり座ったりが大変だった。それなのに掛り付けの医師も、あちこちかかった医師も誰もその病気だとは気付かなかった。難病でこれといった治療法もないようなので分かったからといってどうにもならなかったのかもしれないが、しかしかわいそうだ。

先週はお通夜、火葬、葬儀と忙しいかったが、これに以前勤めていた建設会社から頼まれていたさいたまの工場の図面の確認申請の提出がかぶって、徹夜があったりで疲れた。
もう年なのか、無理すると次の日がダメになる。
しかし、仕事がたまっている。‥‥確定申告もしなければならない。焦る。