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花森安治の仕事

17日に岩手県立美術館で「花森安治の仕事 デザインする手、編集長の目」を見ました。

花森安治は「暮しの手帖」の初代編集長で、終戦後間もなく創刊した「暮しの手帖」の編集業務のみならず、取材や撮影、執筆、表紙絵やカットまでマルチにこなした方です。

今年の春にNHKの日曜美術館を見て初めて花森という人を知り、その時に表紙などの絵のうまさ、センスに惚れ込み、その気骨に驚いていましたが、その展覧会があると知って早速行ってきました。

膨大な資料でした。そのなかでやはり目を引いたのは、表紙を飾った絵の原画やカットの絵でした。すべて手書きで毎号毎号題字も号の番号も位置もフォント(手書きなのでフォントとは言わないでしょうけど)も変えて、画材も、スタイルもどんどん変わっていくという、そのアイディアやセンスが素晴らしいです。

そしてその優しい絵とは裏腹なような気骨というか、強い信念。大企業だろうが国だろうが、物申すという姿勢に圧倒されました。

それにしても、表現される絵だの取り上げた物もののセンスの良さは、やはり神戸の貿易商の子供として生まれ、幼い頃から映画を見たりということから育まれたのだろうなと思います。
自分が幼いころ住んでいた家を思い出しても、暮らしの手錠の表紙からイメージされる生活というのとあまりに違いすぎます。

全く余談ですが、私が幼いころ住んでいたのは大館市花岡町の鉱山の社宅でした。鉱山の社宅というと健さんの「幸せの黄色いハンカチ」にでてくる寂れた住宅街を思い起こすかもしれませんが、どっこい逆で、鉱山という大企業は自前で発電所も持っていて水道も早くから完備していたため、電気も水道もタダだし、給料も周辺の人たちより良かったようで、どちらかというと周辺の人たちよりハイカラな生活をしていたと思います。未だに従兄弟たちからあんた達はハイカラだったと言われます。私の父は地元出身でしたが、近所には東大や京大出身の親を持ち東京からやってきた人たちがたくさんいましたので、こんな田舎にあって周りから見ると別世界が広がっている感じだったようです。なにしろ当時地元の子供達は(私も)父親や母親を「とおー!」「かあー!」って呼んでいたのに、この子達は「パパ」「ママ」だったり「おとうちゃま」「おかあちゃま」だったりしたのですから。

それはさておいて、暮しの手帖の1世紀25号(1954年9月発行。1954年は私の生まれた年)の記事の中にキッチンの流し台と調理台ガスコンロの位置関係はどれがいいのかというものがあります。なんとコンロは三口です。それを現在のキッチン同様の I 型にならべて、それがほとんどシステムキッチンのように収まっているのです。それでシンクが左で真ん中が調理台でガスコンロが右側がいいのかシンクが真ん中がいいのかというように並べ替えて考察しているのです。
地元の人より少しハイカラな生活をしていたはずですが、どう思い返してみても流し台は人研ぎ(石のようなもの)だったと思いますし、調理台なんてなかったような、ガスコンロだって1口だったような気がします。実家に行って聞いて見ましたが、よく覚えていないでした。

花森さんはとんでもなく凄い人なのは間違いがないのですが、時代のかなり先を行っていて、庶民はその憧れを求めて「暮しの手帖」は部数を伸ばしたのではなかろうか、とも思いました。

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