設計監理
当市にこんど建設される保育所の最初の担当者会議が今日あった。最近の公共建築では設計者と工事監理者が別々にされる。この保育所もその例に倣って別々で、設計者選定のプロポーザルで当方は負けた。したがって設計は出来なかった。工事監理者選定は入札が行われ、まったく想定外だったが当方が落札してしまった。想定外というのは、これまで当市で行われた設計関係の入札ではあり得ないぐらいの安値で同じような業者が落札し、今回も同様だろうと思っていたからだ。ならば、入札に参加しなければいいようなものだが、設計したのが当方と同じ高気密高断熱の団体新住協のメンバーで、市の入札公告でも高気密高断熱に熟知していることが条件だった。設計者は監理者にはなれないし、当市にはあと新住協に参加している設計事務所はない。だったらおれしかいないだろう と思ったが、しかし現実は安値優先だから落札できないと思ってもいた。それがなんと、今回の入札から安すぎる札をいれた業者は失格となってしまった。で、おもわず監理が転がり込んできたわけだ。
それにしても、設計の入札といい、設計者と設計監理者を別々にすることといい、まったくばかげたことばかりだ。
設計という行為は創造性や芸術性、技術的な面、さまざまな要求をまとめなければならないものなのに、入札という「安くやりますよ」と言った人が設計するというのは、はっきりいってどうでもいいものを設計しろと言っているようなものだ。それを公共施設にもとめていることになるのだ。
設計者と設計監理者を別々にするというのも、設計図面という紙では伝わらないさまざまなことが現場ではでてくるものなのだ。そして、その設計のすべてを最初から理解しているのが設計者なのに、工事が始まると出てこれない。これでは現場を間違いがないように導くことは出来ない。建設する業者も別に選ばれた監理者も図面をよく読み込んで設計者の意図を理解しようと務めるが、設計者の頭の中までは読めない。
建物が出来る前にその空間全体を最も理解しているのが設計者なのだ。そして設計者であっても完璧に完成形を想像することは不可能なことなのだ。だから、設計したものが設計監理まで行なって、こまかな調整を行ないながら、より良い建物に持っていくのが本来の設計だと思うのだが、世の中どうなってるんだか、おかしな方向にばかり進む。
それにしても、設計の入札といい、設計者と設計監理者を別々にすることといい、まったくばかげたことばかりだ。
設計という行為は創造性や芸術性、技術的な面、さまざまな要求をまとめなければならないものなのに、入札という「安くやりますよ」と言った人が設計するというのは、はっきりいってどうでもいいものを設計しろと言っているようなものだ。それを公共施設にもとめていることになるのだ。
設計者と設計監理者を別々にするというのも、設計図面という紙では伝わらないさまざまなことが現場ではでてくるものなのだ。そして、その設計のすべてを最初から理解しているのが設計者なのに、工事が始まると出てこれない。これでは現場を間違いがないように導くことは出来ない。建設する業者も別に選ばれた監理者も図面をよく読み込んで設計者の意図を理解しようと務めるが、設計者の頭の中までは読めない。
建物が出来る前にその空間全体を最も理解しているのが設計者なのだ。そして設計者であっても完璧に完成形を想像することは不可能なことなのだ。だから、設計したものが設計監理まで行なって、こまかな調整を行ないながら、より良い建物に持っていくのが本来の設計だと思うのだが、世の中どうなってるんだか、おかしな方向にばかり進む。
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